~書画で辿る丹波偉人伝2020開催

2020年(令和2年)3月~4月にかけて、第2回の『書画で辿る丹波偉人伝2020春』を企画していました。

コロナウィルス感染拡大防止の為webのみでお知らせしていましたが、この度短期間ですが開催いたします。

この機会に、貴重な丹波を代表する偉人の作品をぜひご鑑賞ください。

 

 

開催期間:令和2年7月23日(木)~7月26日(日)

時 間 :午後 1:00 ~ 7:00(最終日は午後 5:00まで)

 

【展示作品】

赤井龍民・・・3点

石川晴彦・・・3点

弘巖和尚・・・8点

                   (形式:全て掛け軸)

 

 

 

 


【日本画家:石川晴彦】

大正・昭和期の日本画家

明治34(1901)51日~昭和55(1980)411

出生地京都府与謝郡加悦町

本名石川 利治

学歴〔年〕京都美術工芸〔大正7年〕中退

【経歴】

大正 8年入江波光に師事。

12年生作社を結成、第1回展が村上華岳の評価を受ける。

13年国画創作協会展に入選。

14年華岳の指導により聖拙社を結成。

昭和 3年国画創作協会日本画部が解散したため、同部会員による新樹回の結成に参加4年第1回展に「小女」を出品。以後公募展には出品せず、華岳の影響を受けた水墨による仏画や山水画を制作、その仏画は多くの支持者を得た。

12年頃より晴彦と号し、戦後32年奈良県生駒郡宝山寺の多宝塔壁画を制作。

 

その画風に関して 

入江波光、村上華岳の両巨匠に師事する。特に村上華岳から受けた仏画の影響は 石川晴彦 の作品から多分に見て取る事が出来る。

石川晴彦 は西洋の中世宗教画を研究し、仏教を学び座禅をし、古画や仏像を見て歩いた。

師の影響を受けながらも、自分なりの仏画を完成させる為にただひたすらに努力を積み重ねた。

そんな 石川晴彦 が描く観音像はどこか西洋的な情緒を漂わせながらも、単なる宗教画ではない人間的な温かみと安らかで清浄な印象を感じさせてくれると評されている。

 


【日本画家:赤井龍民】

先ずは、日本画家:赤井龍民。

当時は、丹波で活動しその評価は高かったものの、現在では『龍民』という名前を知る人は殆どいません。前回の『書画で辿る丹波偉人伝2019夏』で作品を観に来ていただいた方の中に、以下の様に話された方がありました。

 

「龍民さんと言う画家さんんがいらっしゃったのですが、ごぞんじですか?」

「評価の高かった方でしたが、なぜか丹波から離れて北海道で亡くなられたそうです。」

「氷上町では数点の作品を残されていると思いますが、名前を知っている方が少ないのでその作品が粗末に扱われて、無くなっていくのではないかと思うと残念です。龍民さんを知っていただけたら嬉しいんですが。」

 

私も、『赤井龍民』という名前を聞いたのはその時が初めてでした。

そんな話を聞いて、今回一番知っていただきたい画家として”赤井龍民 3点の作品(掛け軸)”をご紹介します。

【兎の図】

出羽の国よりみちのくのかたへ通りぬけるに、山中にて日くれければ、からうじて九十九袋といへる里にたどりつきてやどりもとめぬ。

よすがらごとごととものの響く音しければ、あやしくて立出で見るに、古寺の広庭に、老いたるをのこの麦をつくにてありけり。予もそこら徘徊しけるに、月孤峯の影を倒し、風千竿の竹を吹きて、朗夜のけしきいふばかりなし。此のをのこ昼の暑さをいとひて、かくいとなむなめりと。

 涼しさに麦を月夜の卯兵衛かな

《与謝蕪村『月夜の卯兵衛』より》

 

  • 出羽の国=今の山形、秋田両県の大部分にあたる。
  • みちのく=今の福島、宮城、岩手、青森各県の大部分にあたる。
  • 九十九袋〔やしやぶくろ〕=ある村里の名。
  • 孤峯=一つそびえたっている山の峰。
  • 千竿〔せんかん〕=たくさんの竹。竹林。
  • 卯=兎の意。
  • 屋どりもとめぬ=宿をもとめることができた。
  • よすがら=夜通し。
  • あやしくて=不思議に思う。
  • 老いたるをのこ=年取った男。
  • 朗夜のけしき=晴れ渡った夜の様子。

明治三十一年氷上郡沼貫村稲畑に、赤井秀夫の子として生まれる。名を義一と言い幼少より画才秀逸にして、郡内にて評判となり、大正七年二十歳の時、帝室技芸員の菊池契月画伯に師事し、昭和十五年までに帝展八回、各諸展覧会にも連続して入選、入賞の足跡を残す。

 

 昭和十一年、京都市外西向日町花屋敷に居を構え、作画活動に専念する。その頃、とう郡内にても有識者が参加して後援会組織が造られ応援した。(郡内参加識者には、田艇吉、衣川退蔵、藤井節太郎、有田邦敬、他多数)

 

 その後日本の進む道が軍事優先となり、芸術家としての氏の苦労は計り知れず、昭和二十年十二月に北海道の敷地にて四十五才の若さで没した。

 

 

 

略歴

 

·         大正 七年 菊池契月書伯門下ニ入ル

 

·         大正十一年 春宵     大阪美術展推薦

 

·         同年    夜桜     京都無名画展受賞

 

·         同年    乳搾る家   帝展入選

 

·         大正十二年 古寺春日   日本美術展入選

 

·         大正十四年 春光を浴びて 大阪美術協会展一等受賞

 

·         大正十五年 陽春麗日   奉讃展入選

 

故 久邇宮殿下より記念品拝受

 

 

【僧侶:弘巖和尚

弘巖和尚 江戸中期(寛延元年~文政4年〔1748年~1821年〕)

高源寺の名僧侶

作品:寒山拾得 鍾馗

丹波青垣のもみじの寺で知られている高源寺を創建したのが遠谿祖雄禅師。のちの時代、荒れ果てていた高源寺を柏原藩の援助を受け復興したのが弘巖和尚です。

 

禅画の最高峰白隠禅師の弟子。白隠亡き後高弟遂翁に育てられ、その書画は白隠、遂翁及び同じく高弟の東嶺などの影響を受けている。