~書画で辿る丹波偉人伝(2019夏)~

このイベントは終了しました。

 

7月13日から8月18日までの
『書画で辿る丹波偉人伝』
を終了しました。
御来店有難う御座いました。

現在では、名前も知られていない“丹波の偉人”が残した作品展。
興味を持たれる方が少ないと思っていましたが、『是非見たい』と言われて来られた方、『書道を習っているから昔の人の文字を文字を見たい』、『俳句を詠むので』などの理由で来られた方、“作品はよく分からないけど、この空間は贅沢ですね』と鑑賞して下さった方など、色々な感想をお聞きできました。

大きな展示会では無かったので、御来店頂きました人数は約100人でしたが、作品一点一点丁寧にキャプションと共に鑑賞していただけた事が嬉しかったです。
中には、1時間程ゆっくりされた方もありました。
今回で終わりで無く、次回の作品展も予定しています。(今回と違った偉人伝を開催します)
その時には、またお越し下さいますよう、宜しくお願い致します。

太田檜雲堂 店主

【日時】令和元年 7月13日(土)~ 8月18日(日)

㏘ 1:00~㏘ 20:00

【休業日】火・水曜日

【場所】太田檜雲堂 ぎゃらりー

 

現在、失われつつある丹波偉人の作品展です。

この展示会で偉人の名を知ってもらい、多くの作品を後世に伝えられたらうれしいです。

作品を間近で鑑賞できる『ちいさなぎゃらりー』にぜひお越しください。(檜雲堂)

 

【展示作品作家名】

・松井拳堂 ・田 ステ女 ・田村菁斎 ・小川芋銭 ・細見綾子 ・弘巖上人・常岡文亀 ・芦田 均    ・村上専精     ・澤木興道    ・野村泊月    ・小島省斎 ・西山泊雲  他      

(某コレクター所蔵品)

 

作品紹介

村上専精(春日町)

教育者・仏教史学者

作品:「守愚」

 教覚寺というお寺で生まれた専精。父・広崎宗鎧は近くの子供たちを集めて教えるほど教育に熱心な人でした。明治6年現在の船城小学校の前身「又新舎」が教覚寺にでき、父は初代校長に成る。専精は立派な僧侶の伝記に触れ、母親が優れていたことに気づき、母親となる女子教育が必要であると痛感。仏教の精神に基づく女学校を設立し、初代校長として仏教精神に基づいた講和を行った。

東京大学ある安田講堂は、大学に講堂がないことを嘆いていた専精が、専精を尊敬し教えを受けていた安田に講堂を作るように訴えたことがきっかけでした。

小島省斎(青垣町)

丹波聖人[人生の生き方を説いた「儒学」を教えた人]作品:一行書

柏原藩主たちに儒学を教えながら、その一方では教育の場として学校が必要だと説き『崇広館』を起こす。

今の崇広小学校の校名の由来となっている。

教育を通して沢山の人材を育てた。のちに鐘ヶ坂トンネルや阪鶴鉄道(今の福知山線)の開通に力を尽くした田艇吉もその一人。省斎の教えが艇吉を通して花開いたといえます。

 

弘巖和尚(青垣町)

高源寺の名僧侶

作品:寒山拾得

丹波青垣のもみじの寺で知られている高源寺を創建したのが遠谿祖雄禅師。のちの時代、荒れ果てていた高源寺を柏原藩の援助を受け復興したのが弘巖和尚です。

 

禅画の最高峰白隠禅師の弟子。白隠亡き後高弟遂翁に育てられ、その書画は白隠、遂翁及び同じく高弟の東嶺などの影響を受けている。

 

小川芋銭(市島町)

 画家

作品:河童の図

河童の芋銭と呼ばれるほど、河童の絵の第一人者。丹波の雲海に魅かれ西山泊雲の客人として招かれた芋銭は丹波に逗留。石像寺で雲海の絵を沢山描いた。

西山泊雲と小川芋銭はお互いの子供(それぞれ2人)2組を結婚させるほど信頼があったよう。

松井拳堂(柏原町)

郷土史家

作品:達磨図(扇面)

丹波の歴史を細かに調べ上げ著作を残した郷土史家。達磨の絵もよく描き、その絵に首相をつとめた犬養毅が賛を寄せるほど、相当な腕前でした。

 

拳堂は、古武士を標榜したが故に、古武士に通じる「拳」と改名し、拳堂・拳道人などと号した。

 


植木環山(山南町)

医師・儒学者

作品:「丘山積卑而為高(荘子の句)」

丘山(きゅうざん)は卑(ひく)きを積みて高きを為(な)し

 

 

 

 

常岡文亀(柏原町)

日本画家

作品:河骨と川蝉の図

 

 河骨…

https://ja.wikipedia.org/wiki/コウホネ

田 健治郎(柏原町)

政治家

作品:「静観」

田 艇吉の弟

戦前、逓信省のトップを務めた他、台湾総監督に就任するなど、国の政界で活躍した。

兄の艇吉は、丹波の開発に尽くし、弟の健治郎は国という舞台で仕事に励んだ。

  ※逓信省は、かつて日本に存在した郵便や通信を管轄する中央官庁

 

田 健治郎は、出身地柏原町の譲葉山から譲山健と号した。

 

田村菁斎(青垣町)

医師・俳人(俳号:三澣)、細見綾子の師

 

細見綾子(青垣町)

俳人

作品:短冊

若くして両親が亡くなり、夫も失った上、自らも病魔に侵されるなど、不幸が重なった中で俳句と出会い、女流俳人の第一人者と言われる。

俳句の世界で最後方の賞とされる『蛇笏賞』を受賞

 

田 ステ女(柏原町)

俳人

作品:色紙(掛け軸)

降り積もった雪の上に残った下駄の跡を見て詠んだ俳句が、「雪の朝 二の字二の字の下駄のあと」。これは田ステ女が六歳で作ったとされている。

正岡子規が獺祭書屋俳話の中で、「元禄の四俳女と呼んだ一人」と言われた。

元禄(江戸時代前期)

河合(かわい)智(ち)月(げつ)(智(ち)月(げつ)尼(に))・田捨女(でんすてじょ)・斯波(しば)園女(そのめ)・秋(しゅう)色女(しきじょ)

ステ女はのちに髪を下ろして仏門に入った。


澤木興道(氷上町)

僧侶(仏者)

作品:円相・色紙

「誰やらか 心に似たり 秋の月」

三重県津市生まれ。幼少に両親を失い、一家離散して澤木家の養子になるも、悲惨の時を送る。18歳で出家。娶(めと)らず、住せず行雲(こううん)流水、無所得の生涯を徹底的に貫き、正しい袈裟の普及と只管打坐(しかんたざ)に全生命燃焼した。『宿なし興道』と呼ばれ、純粋高潔な道風は多くの人を徳化した。

明治32年雲水として氷上町御油の圓通寺を訪れひと夏を過ごす。

禅の神様と呼ばれる。

空を行く雲と流れる水。物事に執着せず、淡々として自然の成り行きに任せて行動することのたとえ。

 

西山泊雲

野村泊月

(市島町)俳人

作品:俳句

「月前や黍の孕み穂あきらかに」

「花は早北へ移りし京都哉」

俳人として名をなした兄弟。市島町中竹田に生まれた西山泊雲と野村泊月。(泊月は野村家に養子に入り、姓が野村になりました。)高浜虚子(たかはまきょし)に学び、虚子が主宰した俳誌「ホトトギス」の代表的な作家として活躍しました。泊雲は、実家の酒造業を営みながら俳句に打ち込み、泊月は晩年に失明し、視力が薄れていく中で俳句を作りました。

芦田 均(柏原町)

内閣総理大臣

作品:書簡

衆議院議員に当選し、第二次世界大戦後に内閣総理大臣になる。

少年期を柏原町で過ごし、柏原高校(旧制柏原中学校)入学。外交官になりたいという夢を持っていた。外務省に入りロシア・トルコ・ベルギーなどを回って国際政治を体験。満州事変後、ヨーロッパから孤立する日本の将来意を心配し、政治家になることを決意。衆議院選挙に当選した均は、反戦活動を繰り広げました。戦後、国際感覚のある自由主義者として知られていた均は、厚生大臣に入閣。22年に民主党を結成し総裁に就任。23年に内閣総理大臣に就任しました。日本の復興につとめていましたが、昭電疑獄事件という贈収賄事件に巻き込まれ芦田内閣は総辞職となりました。

 



丹波新聞社様の記事(2019/7/30)

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